競走馬(きょうそうば)は、競走用に改良された馬。競馬のレースに用いられる馬の総称。以下、競走馬に関するさまざまな事柄に関して記述する。
なお、競走馬の血統や配合に関する事柄については、競走馬の血統を参照のこと。
なお、かつて(明治以降、おおむね1950年代前半まで)の日本においては、馬資源の不足などの理由から品種を問わず平地競走にも用いられていた。
1歳になると育成牧場ヘ移動させ、馬具の装着に慣れさせることに始まり、最終的には人間が騎乗することに慣れさせる。
また、日本においてはあまり一般的ではないが、ピンフッカー(Pinhooker)と呼ばれる育成専門の業者が介在する場合もある。このピンフッカーは当歳ないし1歳馬を購入し、調教を加えて市場価値を高め、2歳時のセリ市で高値で売却することを目的とする。
かつては生産者から日本中央競馬会(JRA)が購入して自ら育成した後、抽選で馬主に再販売された抽せん馬もあった。
競走馬名に関するルールの詳細については、競走馬名を参照のこと。
競走生活を引退した馬のその後の用途としては、
などの選択肢がある。ただし、表立って発表はされないものの、食肉用に処分されるものも少なからず存在する。
代表例は、2006年の高松宮記念を制した「オレハマッテルゼ」を始めとする小田切有一保有の馬や。「マチカネ」の冠を付けた馬を所有する細川益男らであろう。一連の「珍名馬」増加の背景には、日本語のフレーズを馬の名前に最初に採用した小田切の影響、あるいは国際レースの増加に伴う海外の馬との名前の重複の可能性の回避などが強いと思われる。
なお、「珍名馬」の例については2歳珍名馬を参照のこと。
一般に、胴が短く筋肉質な体型の馬が多い。また、気性面においてはスタートから全力で走ろうとする馬が多い。
中央競馬では伝統的に長距離のレースで活躍する馬が評価される傾向が強く、スプリンターには活躍の場が少なかった。中央競馬においては1984年にグレード制が導入された時点では1200mのGIレースは存在せず、1990年にスプリンターズステークスが初めてGIに格付けされた。さらに1996年以降は高松宮記念(高松宮杯)が1200mのGIレースとして施行されている。なお中央競馬では生粋のスプリンターが年度代表馬に選出されたことは無い。
スピード能力に優れるが、スタミナに欠けるため2000メートル以上の距離になると最後に失速する事が多い。ただし、あまりに競走能力が違いすぎていたり、レース展開によっては、多少距離が長くても最後まで失速せずに勝ってしまう場合もある。逆に、スプリンターほどスタートダッシュは早くないので、1400m以下の短距離戦では能力を出し切る前にレースが終わってしまう事もある。
前述したように中央競馬では伝統的に長距離のレースで活躍する馬が評価される傾向が強く、グレード制導入以前は八大競走の中で1600mのレースは桜花賞のみであった。1984年にグレード制が導入された際に安田記念とマイルチャンピオンシップがGIに格付けされたことで初めてマイラーに大きな活躍の舞台が与えられた。その後は1996年にNHKマイルカップが3歳のチャンピオンマイラー決定戦として、また、2006年にヴィクトリアマイルが古馬牝馬のチャンピオンマイラーを決定するGIレースとして創設されるなど、マイラーの活躍の場は増加しつつある。
一般に、胴が長くすらりとした体型の馬がステイヤーであり、また、長距離レースを勝つためにはペース配分が重要であるため、騎手に逆らって暴走することがあるような気の荒い馬は少なく、素直でおとなしい気性の馬が多い。スタートで大きく出遅れることが多い馬は、出遅れを挽回できる長距離レースでしか勝てないという場合もある。
かつての日本では中央競馬における八大競走のうち古馬が出走できるレースがすべて2500m以上で行われるなど、ステイヤーとしての資質こそが優れた競走能力の証であると評価されていた。しかし近年はマイルないし中距離のレースにおけるスピードを重要視する世界的な風潮の影響から、中央競馬においても1984年に秋の天皇賞の施行距離が3200mから2000mに縮小されるなど、ステイヤーが活躍する長距離レースは施行数が減少傾向にある。
また、近年は中央競馬の全体的な傾向として早熟なスプリンターやマイラーを父に持つ血統が人気を集めているため、ステイヤーは種牡馬としても繁殖牝馬が思うように集まらず、苦戦する傾向にある。しかしながら母の父としてはスタミナを伝える役割を期待されることが多く、活躍馬の母の父として血を残すステイヤーも数多い。
なお、ダートに関しては競馬場によって砂質や砂の深さに違いがあり、ダート馬であるからといってあらゆる競馬場のダートコースに対応できるとは限らない。とくに国による砂質の差はは大きい。
横濱競馬場では、設立当初は日本馬と中国産馬によって競走が行われていたが、後に競走馬の質と量を確保する目的で、主にオーストラリアからサラブレッド競走馬が輸入された。当時の日本には血統登録制度が確立されておらず、こうした濠州産サラブレッド(濠サラ)は後に公式な記録がはじまると「血統不詳馬」となった。これらの濠サラは競走引退後に払い下げられ日本各地で繁殖に供されたが、ミラなどの大いに活躍したごく一部の競走馬を除いて血統や競走の記録は失われ、単に「洋種」馬として供用された。高砂や吾妻も同様の扱いを受けており、血統管理と淘汰に立脚した品種改良を目的とする近代的な馬産は、まだ確立されていない。
これらの牧場では、乳牛・肉牛・綿羊・肉豚などと並び、乗用馬、貨車用馬、農耕馬など様々な目的で様々な品種の馬が輸入され、血統のはっきりしない在来種、洋種(前述の濠サラなど)、血統のはっきりしているアラブ、アングロノルマン、アングロアラブ、ギドラン、ハクニー、トロッターらに混じってサラブレッドが繋養されているといった状態で、これらの交配によって雑種も生産された。この時代にはサラブレッド種牡馬・種牝馬の数が絶対的に不足していたこともあり、競走用のサラブレッドの生産が本格化するのはもう少し先のことで、さまざまな種の雑種の生産や育成を通じて西洋式の馬産の方法技術を模索していた時期と言える。
明治初期には広沢牧場をはじめ各地に西洋風の方式を取り入れた牧場が創設されたが、これはもっぱら特権を失った士族への授産という性格が濃く、計画的な馬の品種改良には至っていない。体系的な馬産が開始されるのは明治中期のことである。1894年(明治27年)の日清戦争、1899年(明治32年)の北清事変、1904年(明治37年)の日露戦争に際し、陸軍は軍馬として在来種を中心とした日本産馬を大陸に連れて行き、西洋の馬との差を痛感することになる。
北清事変後の北京では、駐屯する西洋列強の軍馬に比べ、日本産馬は馬力、速度、持久力、悍性とすべてにおいて著しく劣っていることが明らかになる。列強の馬に比べると日本産馬は20センチほど体高が低く、走らせると1分で180メートルも引き離された。性質も悪く、日本産馬は集めて繋ぐと暴れ、物資を運ばせれば転倒し、大砲を運ばせれば動きが鈍く、騎手の指示に従わず、牝馬を見れば発情し、銃声に驚いて逃げ出す有様で、西洋列強の軍隊との共同作戦において隊列を乱したり行軍を遅らせたりと列国に多大な迷惑を与え、西洋からは日本の馬は猛獣かとか日本の騎兵は馬の一種に乗っていると嘲笑された。あわてた軍部は日英同盟を頼って濠州からサラブレッド牝馬を大量輸入するが、これらの馬は結局戦場には連れて行かれず、民間に払い下げられた。
特に日露戦争の陸戦では日本側の人的損失は甚だしく、戦後の国内世論は西洋並みの優秀な軍馬を育成することが急務であると説き、やがてそれは明治天皇の知るところとなる。1904年(明治28年)に政府内に馬政調査会が設置されて国内各地に官営の種畜場が開設されていたが、もともと馬術に関心の強かった明治天皇は元老伊藤博文に馬匹改良を命じ、1906年(明治39年)には第一次桂太郎内閣直属の馬匹改良を目的とした馬政局が設立、農商務・外務・大蔵・逓信大臣を歴任した曽根荒助男爵が馬政局長官に任命され、軍馬改良を柱とする馬政30年計画が上奏された。馬政局は奨励する種馬の種類として、軽種にサラブレッド、中間種にハクニー、重種にペルシュロンを指定し、これを補うものとしてギドラン、アングロアラブとアングロノルマンを選定した。
これを受けて国営の奥羽種畜牧場では1906年(明治39年)に濠州産馬128頭を輸入、翌年にはインフォーメーションなどの種牡馬を導入した。宮内省管轄の下総御料牧場は(1907年(明治40年)にブラマンテー、サッパーダンスなどサラブレッド種牡馬4頭を英国より輸入すると共に、雑種の繋養馬を売却処分した。民間では三菱財閥の小岩井農場が1907年(明治40年)、種牡馬インタグリオーと種牝馬20頭を英国より輸入し、本格的なサラブレッド生産に着手した。このとき小岩井農場に輸入された種牝馬のうち、ビューチフルドリーマー、フロリースカップ、アストニシメント、プロポンチスなどの子は特に優秀で、これらの小岩井農場の基礎輸入牝馬の子孫は現在にまで連なる繁栄を示している。